パソコンを使って音楽を聞く「PCオーディオ」という新しい分野が騒がれて久しい。確かに、PCを使うとCDからの音源取り込みやその編集、あるいはインターネットからの楽曲のダウンロードなどが非常に簡単に出来、利便性という意味では、すでにレコードはもちろんCDも及ぶレベルではない。
では肝心の音質はどうなのだろう?
これも当初は疑問が大きかったが最近では相当改善し、「耳に聞こえる音」という意味ではピュアオーディオに十分匹敵すると思う。システムを慎重に選べば、ピュアオーディオのそれよりも安い価格で、それよりも「細かい音」まで聞き取ることも不可能ではない。
現実にLINN社からも“クライマックス”というインターネットあるいはHDD(メモリー)対応型の高級コンポーネントが登場している。
一つの方向としては、それは確かに“あり”だと思う。
では、人がオーディオに求めるのは「音の良さ」や「利便性」だけなのだろうか?
私は、それは“違う”と思う。
例えば時計が、「時刻を知るためだけのもの」であれば、クォーツに劣る機械仕掛けの腕時計は必要ない。まして、その中身が見える「スケルトン型」のゼンマイ時計など、全く意味がない。しかし、それは存在している。
人は“性能”よりも“装飾性”という“遊び”を高級時計に求めるからだ。
スタジオや業務などプロの分野では“性能”や“利便性”は、何より重要だから、その現場でデジタルがどんどん発展しているのは理解できる。デジタルの利便性が求められる性能にマッチするからだ。しかし、オーディオ、更にいうならピュアオーディオと呼ばれる装置に、果たして“性能”や“利便性”がどこまで求められるのだろうか?
“性能”の追求よりも“遊びや味わい”と感じられる部分をより強く機械に求めること。それが“趣味性”の本質だとすれば、PCオーディオは果たしてその“味わい”を満たせるのだろうか?
安くて便利。それは誰しもが求めることである。逸品館も当初は「高いもの=無駄なもの」と考えて、華美な製品を嫌っていた。今でも、「バカみたいな高い製品」を好きになることは出来ないが、振り返えれば逸品館が販売してきた「オーディオ製品」は皆、普通の人から考えれば「無駄に(異常に)高い」ものばかりで、「安くて便利な製品」からはかけ離れたものばかりだ。
ではなぜそんな“無駄”なものを人は求めるのだろう?
生活には潤滑油が必要だ。自分自身を取り戻せる時間がなかったら、人は生きて行けない。
“無駄”は、自分をリセットし、明日を生きるため欠かせない時間ではなかろうか?
趣味とは「無駄をいかに楽しむか!」に尽きるのではなかろうか?
実は、その「無駄」の中にこそ「人生にとって最も大切なこと」が隠されていることが多いように思う。
趣味の機械から無駄を省いたら、それは「ただの機械」にしか過ぎない。
高級オーディオに求められるのは「性能」だけではない。外観の形や色、装飾から生まれる「持つ喜び」や「見る喜び」、そういうものから醸し出される「味わい」である。
心を数字で表現できないように、趣味の製品の味わいを価格や数字で計ろうとすることは、無意味である。
一つの製品を使い込んで行くことで、「作り手の顔が見える(作り手の人生観が伝わる)」。
心が伝わる。それが叶ってこそ“趣味と呼ぶにふさわしいこと”だと私は思う。