まずプリアンプを使わない“素”の性能を耳に焼き付けるために、PS8500/Specialの7.1chダイレクト入力の音を聞いてみた。
7.1chダイレクト入力に直接DV12S2/Special Mark2を繋いだときの音
高域は、とても自然に伸びている。
中域には、十分な厚みがある。
低域は、十分な量感があるがやや緩い感じがする。
音楽を聴いている印象。
明瞭度は十分。細かい音もしっかり聞こえるし、細やかな楽器の音の変化もリニアに再現される。特徴的には、中域に十分な厚みがありボーカルの表情や息づかいがとても自然に伝わってくるのが好印象。パーカッションやサックスの音も自然。生楽器や高級オーディオのカチン!としたオーディオ的なするどい切れ味までは望めないが、音楽の流れが自然で非常に楽しい。
7.1chダイレクト入力とDV12S2/Special Mark2の間にCA−1を繋いだときの音
高音は、切れ味が増してそれまでは聞こえなかった細かい音が出てくる。
中域は、帯域バランスが上下に伸びた分やや薄くなるが問題はない。ちょっとあっさりした。
低域は、帯域がさらに伸びると共に力感や締まりが出て、若干感じていた低域の遅れが消えてグングンと前に出てくるように押し出してくる感じが心地よい。
音楽を聴いている印象。
明瞭度は、ハッキリと増加する。それまで聞こえていなかった細かい音や表情も聞こえるようになる。ボーカルよりも伴奏の楽器の音がよりクローズアップされ、個々のメロディーラインが明確になる。とは言え、良くありがちな「バラバラな音」に分解されるのではなく、個々の音の芯がシッカリとして、実在感がアップし、定位感がきちんと固まった上で、それぞれの楽器のパートが綺麗なハーモニーを奏でているのが実感できる。
オーディオ的、HiFi的な要素が強めに出てくるが、音楽性が失われるわけではない。特性重視?音を少しでも良くしたいというこのアンプの「個性」そのものは、ハッキリと感じられるがそれが音楽を聴く邪魔になるということはない。ただし、EGO-WRAPPINN’の個性を聴いている印象は薄くなり、きちんとした佇まい的お上品な感じがやや強くなる。
プリアンプを使わないときは、音楽を流れの勢いで躍動的に聞かせているという印象があったが、プリアンプを入れることで音の品位と解像度、明瞭度が大きく増加し、ライブというよりはスタジオのレコーディング風景を観賞しているという感じが出てくる。
CA-1はAccuphaseのように特性重視で音か細かく端正な印象があるが、解像度や明瞭度はCA-1の方がより高く、何よりも音が“クール(無表情)”じゃないのが嬉しい。Luxmanのような艶やかさや柔らかさがあるが、音の角がしっかり立っているのでCA-1のほうが解像度や明瞭度はより高い。FMアコースティックよりは、音は硬質だが硬すぎることはない。明瞭度はFMアコースティックよりも高いだろう。たぶん、マークレビンソンのNo.26SLあたりと音質は近いのではないかと思われるが、それぞれを実際に繋ぎ変えて比較して確かめたわけではないので、まったく保証は出来ない。あくまで頭で考えたことだ。
音質的なクォリティーは、音楽的な要素を上回っている。良い意味で日本人的なHiFiサウンドのように感じられる。それは、他のフェイズテック製品と共通するブランド独自の明確な個性だと思う。
以前聞いた音では、Victorのラボラトリーシリーズの最高モデルのスピーカーのデモンストレーションを思い出した。クォリティーは抜群に高いが、無機的とも有機的とも形容しがたい不思議なサウンドだったことが強く記憶に残っている。それもそのはずこのアンプを設計した(作っているのは)Victorのラボラトリーシリーズを作っていたその人なのだ。
デジタル入力の音質
高域は、雰囲気が出て柔らかくなる。
中域は、セクシーな魅力が溢れている。ボーカルの表現は一番細やかで深くなる。
低域は、量的には7.1chダイレクト入力と変わらないのだが、ベースやドラムの音階やリズムの明瞭度はデジタル入力の方が高く、それが自然で楽しく聞こえた。
音楽を聴いている印象。
実に自然でスムース。ボーカルの表情が非常に細やかでデリケートに再現される。バックバンドも含めて、トータルバランスが抜群で、圧倒的に自然な感じ。リズムセクションが無理矢理ではなく、自然に弾んで楽しい。ボーカルの息使い、声のトーンが、本当に自然でそこで歌っているように感じる。普段着のライブ、心に音楽がとけ込んで、演奏と自分が溶け合って一体となって行くような感じがする。
繋いでいた、サーロジックのサブウーファーの電源を入れてサブウーファーを使ってみると。
低音の量感が増して、音楽が体を包み込むように感動が溢れるほどひしひしと感じられる。感動する。体が震える。涙が出そうになる。音楽がグンとドラマティックに表情が深く豊かになる。音ではなく「歌い手の心」が体の中にしみこんでくる。伴奏は、ボーカルに優しく寄り添うように、彼女を支えるように、盛り上げるように聞こえる。滑らかでスムーズ。それでいて力強く、ボーカルを邪魔することはまったくない。音楽が「渾然一体」となって、体の芯に流れ込んでくる。いつまでも聞いていたい、浸っていたいサウンド。
音ではなく、雰囲気(そんな簡単な言葉では表せないが)が圧倒的に濃くなる。音楽を分析しようとか、音を聞こうとか、そんな気持ちは飛んでしまって、ただただこの曲に体と心を委ねていたいという気分にさせる。
7.1chダイレクト入力とDV12S2/Special Mark2の間にAmbrosia 2000を繋いだときの音
高域は、色彩感が増して鮮やかになった印象。
中域は、情に流されずプロらしく丁寧に心を込めて歌っている印象。
低域は、柔らかく体を包み込む印象でデジタル入力に近い。クオリティーはかなり高くなる。
音楽を聴いている印象。
デジタル入力では、だしきれなかった「鮮やかさ」が出てくる。リズムセクションとボーカルのハーモニーがより完璧になる。デジタル入力では、やや情に流される傾向が強かったが、アンブローシア2000を使うことで、プロのボーカルらしく“お涙頂戴!“的に情の中にも整然としたものが出てきて、よりボーカルがプロっぽく本物らしい生々しさが感じられる。
音質の傾向や全体の印象としては、デジタル入力ととても良く似ているのだが、力を入れた部分の音圧の立ち上がりが早くなっているのと、エコーの部分の空気感がより繊細で透明になったことで音楽全体のスケール感や表現力が、アップしている。
喜怒哀楽の表現がより鮮やかで大きくなり、デジタル入力に比べて音楽的(アーティスティック)な完成度がより高くなる。
無理矢理作った慰安症はまったく感じられない。あらゆる部分において違和感がほとんどなく、本当に自然で、本当にリアル。
やっぱりこのアンプは素晴らしい!音質変化という意味でWIREWORLDのスピーカーケーブルには、本当に驚いたのだが、Ambrosia
2000は、音質を劇的に変化させたり向上させたりすることなしに(だからこそ、どこかで騙されているような違和感が少ない)音楽的な完成度、満足度、納得感をほぼマキシマムと言えるほどに向上させるのがすごいと思う。
この音質なら、音楽ファンが求めるあらゆる音楽に対して自然にマッチするはずだ。音ではなく、音楽を聴かせるのがAmbrosia
2000の本質なのだということがCA-1との対比でより明確になる。このアンプのことを私は「あがりのアンプ(これが最後のアンプになるという意味)」と呼んでいるが、今回の試聴でもやはりそう感じた。なぜなら、音楽ファンが求めるオーディオ、求める音は、紆余曲折があったとしても結局そこへ行き着くはずなのだ。
まとめ
最近は、「新、レコード演奏家論」の影響もあって「オーディオで音が変わる」と言うことを純粋に楽しんでいる。少し前に、こだわりにこだわっていた原音忠実再生なんかくそ食らえ!(言葉が汚くてすみません)というほどの勢いだ!!
確かにあまりに音を弄るのは、音楽家に対して失礼だと思う。だからこそ、今回の試聴では「ミュージシャン」を交えてそれが間違いでないことを確認もした。しかし、それでも一人のオーディオファンとしては、純粋に音を変える楽しむ方向性の方が、原音を目差すよりも楽しいから始末に悪い。とは言え、私はオーディオ機器よりもソフトに遙かに大きな魅力を感じる質なので、音はそこそこで良くそれよりも良いソフトが少ないのが最近の悩みの種になっている。
お客様や友人に中には、自分のシステムの僅かばかりの「あら」を探し続けて、ああでもない、こうでもないと毎日のようにシステムをいじり、多数のシステムを所有し、あるいは買い換え、アクセサリーでチューニングして、同好の仲間にきかせて「どうこれ!?」前より良くなった?と意見を伺い、時には「勝ってる?」、「負けてる?」なんてやっている者もいるのだが(私も昔はそうだった)、最近は、システムを弄り回す時間があったら、自分の好きな演奏を、自分の気に入った音で鳴らし、感動の涙を流したい。と考えるようになった。
それは、決して年を取ってシステムを弄り回すエネルギーがなくなったのではなく、3号館の音がどんどん正常進化して(本人はそう思っている)、本当に生き生きとして躍動感と感動のエネルギーに満ちあふれていると感じているからだ。
エネルギー感、躍動感、色彩感、アーティスティックなまでの鮮やかな表現力。Ambrosia
2000とAmpzilla 2000の組合せは、その素晴らしさを私に教えてくれた。音楽を聴くための、音楽を楽しむための、人生を豊かにするためのサウンドがどんなものであるか?私は、そのアンプから多くを学ぶことが出来た。
そういう意味では、今回テストしたCA-1は、方向性や音楽に対する感覚という意味では、Ambrosia
2000とは、かなり違った場所にいるとは思うが「高さ(志の高さやそれを追求して現実にした姿勢)」という意味に関しては、同じだと感じている。もちろん、私には、CA-1の価格とデザインと色彩には、大きな異論はあるし、何よりもそれの半分以下の価格で、Ambrosia
2000が買えるのだから、私がCA-1を買うことは考えられないのだが、オーディオマニアが想像する“至高の音”を垣間見せてくれるほどその音質的な性能は素晴らしい。音楽性という「あいまい」な方向に逃げることなく、真っ正面から「音質」に挑んで「音楽性」を犠牲にせず、躍動感を失わず、国産高級品にありがちな「端正なだけでつまらない音」に仕上がらなかったことは、心から高く評価したい。
特性重視といっては見ても、このアンプで聞く「音楽」は、決して冷たくはない。やや分析的で理屈っぽく、モニター的な部分はあるかも知れないが、それはそれでプラスの個性と捉えて良いとさえ感じるほどだ。私がCA-1よりもAmbrosia
2000を好むのは、メルマガにも書いたのだが、芸術の表現において「写実」は「抽象」を越えることは出来ないと考える私にとって、究極の「写実」を目差しているように感じるCA-1が私にとっての「あがりのアンプ」ではないと感じるからだ。
CA-1が聞かせてくれるのは、感じさせてくれるのは最高の「写実」だと思う。だから、オーディオの頂点が「写実」にあると考える方になら、このアンプは、最高の選択だと自信を持ってお薦めできるだろう。なぜなら、私が聞いた中で過去かつてないほど、その「写実性能」は、間違いなく優れているのだだから。あるがままを、あるがままに感じるオーディオを目差されるなら、このアンプを一度試してみられると良いと思う。そこに必ず「一つの答え(一つの頂点)」が見えると思う。
そして、最後に付け加えたいのだが、私はアンプを聞き終わり、リポートの作成のため“CA-1の資料”を見て愕然とした!なぜなら、このアンプが“真空管アンプ“だと資料を見て初めて知ったからだ。これは、私が知る、私が想像する、真空管アンプの音とはまるで違う。どちらかといえば、最高級のトランジスターアンプの音に近い。曖昧さがなく、ストレートで、素晴らしく“音”が良い。こんな音が“真空管“から出せるとは、その技術力は、まちがいなく驚嘆に値する。
後書き
今回のテストの目的は、CA-1とAmbrosia
2000の音質をPS8500/Specialで比較することによって、3台のアンプの特徴をより明確にすることと、発売前のPS8500/Specialの音質の最終検証だったのですが、その目的は十分に達成できたと感じています。
残念ながら、渾身の情熱を込めてチュニングしたつもりのPS8500/Specialのデジタル入力の音質は、Ambrosia
2000 + Ampzilla 2000の世界に近づくことは出来たのですが、一つとしてそれを越えることは出来ませんでした。もちろんたかだかAVアンプのチューニングモデルがようやく巡り会えたAmbrosia
2000 + Ampzilla 2000の世界へそんなに簡単に到達してしまったら面白くもありません。でも、私は少しもがっかりなどしていません。音楽を楽しむのにも、オーディオを楽しむのにも、その違いを知るのにも、最適の製品を生み出せたと感じているからです。PS8500/Specialの7.1chダイレクト入力は、フェイズテックCA-1と同じ「写実」の世界を現実にします。デジタル入力は、Ambrosia
2000 + Ampzilla 2000の持つ高度な「抽象」の世界を見せてくれます。CA-1とAmbrosia
2000 + Ampzilla 2000の音楽再現の方向の違いをPS8500/Specialは、一台で再現可能だと、今回のテストで確信できたからなのです。
テストを終えて、最後にもう一度PS8500/Specialのデジタル入力の音を聞いてみましたが、トランジスターアンプなのにもかかわらず、良い意味で真空管アンプ的な「甘さ」が少しあって、アタックの強い楽器の音は少し鈍って聞こえることがあるかも知れないけれど、ボーカルの表現力に関しては、ある部分ではAmbrosia
2000 + Ampzilla 2000よりも生々しく、デリケートでドラマティックにすら感じることに気づきました。特に音量を絞った場合、その差はほとんどなくなるのです。そんな時には、小音量でも音楽が痩せて聞こえないように意識して中低音の量感にこだわっているPS8500/Specialの良さが生かされるからです。もちろん、PS8500/Specialの回路構成と価格には、限界があるため、高価なセパレートアンプとは音質が同等だとは、到底言えないですが少なくとも家庭環境で音楽を“楽しませる”、“楽しく聞かせる能力”に関しては、自信を持って保証できます。PS8500/Specialは、これまでのAIRBOW製品にも増して音楽が愛おしくなるような、チャーミングな音質に仕上がっていることが確認できました。
Ambrosia 2000 + Ampzilla
2000の世界を知り、その素晴らしさと同時に、これまで培ってきた生よりも生々しいというオーディオ的イリュージョンの世界も味わって欲しいという、欲張りな私の願いは、PS8500/Specialに結実しました。
Ambrosia 2000 + Ampzilla
2000やCA-1という、素晴らしい「作品達」に出会えたことが、私の中の負けず嫌いに火を付け、そしてそれらの素晴らしさをもっと安い価格で提供したいという気持ちを強くしています。それが、最新のAIRBOWの音に生かされて行くのです。もちろん、AIRBOWだけではなく、逸品館のオーディオショップとしての「多様性」も広げてくれるでしょう。
感動的な素晴らしい「作品」を生み出してくれたメーカーとそれを届けてくれた流通業者に深く感謝します。そして、どんなに優れたオーディオ機器も、素晴らしい音楽を生み出し残してくれたミュージシャンがいなければただの「箱」にしか過ぎないと言うことを決して忘れてはいけません。私にとっては、“それら”を求めて代価を惜しまない素晴らしいお客様と巡り会えることが、人生の何よりの楽しみです。ありがとうございます!
最後に誤解を避けるためにひと言付け加えたいと思うのだが、「原音無視」を大推奨していると取れる私が今3号館で鳴らしている音は、「原音を無視」しているが故に「忠実で生々しいコンサートの再演」に非常に近い。原音を無視しているのにコンサートの再演に近い?言葉の上では、ひどく矛盾しているのだが、考え方や論理としては、筋が通っているのだ。
事実、プロの音楽家やアマチュアでも本当の頂点を目差しているような方(音楽に対して並々ならぬ思いを持たれる方)が3号館に来られると、時に涙さえ流して、自分の“夢が叶った”とおっしゃることがある。言うまでもなく、彼らの夢とは、すでに帰らぬ人となった敬愛する演奏家のコンサートを“本当に目の前の演奏を聴いている”としか思えないほどの素晴らしい生々しさで蘇らせることだ。遺作の忠実なる再現。それが実現しているというのである。3号館の音は、音に非常に厳しい音楽家が聞いてさえ「生演奏」と寸分違わないとさえ感じさせるほどの“迫真のリアリティー”で鳴っているらしいのだ。もちろん、個人の思いには差があると思うが、実際に楽器を演奏する彼らの意見に大きな間違いはないだろう。
「原音」を追求していないのにどうして「コンサートの忠実な再演」が可能なのか?「そこ」が一番重要なポイントなので、出来る限りわかりやすく?それを説明したい。
私の言う「原音忠実再生」とは、録音から再生時までの「一切の歪みを無くしてしまう」という考え方、すなわち「ゲイン、オブ、ワイヤー」という考え方である。この考え方に沿って、システムの歪みを可能な限り取り去っても「心地よい音楽」は、決して聞こえてこない。過去から何度も繰り返しているが、オーディオにおけるコンサートの再演という目的において「歪みゼロの世界」は、実現不可能だからなのだ。
まず「録音」というプロセスを考えてみよう。「歪みなき録音」というプロセスが成立するためには、マイクが「原音」をありのまま「電気信号に変換可能」だという前提が不可欠だが、実は、マイクが音を捉えた時点ですでに「音」は、修復不可能なほど「生の音」とは違っている(と私は考えている)。なぜなら、マイクのエレメント(ダイヤフラム、振動膜)には、面積と質量があり、面積と質量をもつエレメントが「歪みゼロ」で音を電気信号に変換することはあり得ないからだ。もし、マイクが理想的に(歪みゼロで)音波を電気信号に変換できるなら、すべてのスタジオのマイクは「同一のマイク」になっているはずだ。「マイクに個性がある」それは、すなわちマイクが「歪みゼロで音を電気信号に変換できない証拠」である。しかし、多くのオーディオ技術者は、こんな簡単な事実にさえ「疑い」を抱かない。
そして、スピーカーのエレメント(発音体)も同様に面積と質量があるから、どうやったとしても「スピーカーによる音の歪みは避けられない」。それどころが、オーディオシステム全体では数十%以上の歪みが生じているのだ。歪みだらけ(嘘ばっかり)の記録−再生装置。それが「HiFiオーディオの真実の姿」である。
今度は、「音を聞く」人間側の話に入ろう。結論から言えば、人間の「音の聴き方」は測定器とはまったく違って、ものすごく「個性的」である。例えば、人間が音を聞くのは、右の耳と左の耳の「鼓膜」であるが、それぞれの「鼓膜」には、耳以外の所からも盛大に音が入ってくる。いわゆる「骨伝導」である。人間が音を聞いているとき、顔全体も響いているし、体の骨も響いている。それらの響きが「骨伝導」として、鼓膜を震わせるのだ。その音量は相当に大きい。耳が聞こえにくい人のために「骨伝導」を利用したスピーカーが存在するくらいである。スピーカーは前方定位するが、ヘッドホンは頭の中で音が鳴る。それも「骨伝導」のあるなしが大きな原因となっている。つまり、右の音が右の耳にしか入らないから、ヘッドホンの音は「前方定位」しないのだ。
これを補ってヘッドホンの音を前方定位させるデジタル補正の方法が考案されていると聞いたことがあるが、私が推奨する「疑似サラウンド」も「AVアンプが作り出した音=歪み成分」が音場をより生々しくできるという証明でもある。つまり「データー的な歪み」が、常に「人間に悪さをする」とは限らないし、逆にそれを有効に利用する方法すら考案されているのだ。
普段、私たちが聞いている「音」は、測定器やマイクが捉えているような「純粋さ」を持ってはいないし、私たちが求める「生音」も同様、そんな「純粋性」は、必要としない。逆に「純粋性」を高めれば高めるほど「音」は、生々しさを失い冷たくなったり、聴き疲れしたり、とにかく「肌に合わなく」なってしまう。なぜなら、アンプやCDプレーヤーの歪みを取り去ると、逆に他の部分の歪み(マイクやスピーカーの)が、より明確となるからである。これは、私自身が録音と再生の実験を行い得られた結果と一致する。
つまり、録音された音を「人間にとって生々しく聞かせる」ためには「意図した歪み」を与えてやるほうが「歪みを取り去る」よりも有効なのだ。そして、その「意図した歪み」をどのように作り出すか?それが「オーディオ演奏家」に求められる資質であり、センスなのだ。これが、私は「オーディオ演奏家」は、写真を撮るのではなく「写真を越える絵を描かなければいけない」と主張する骨子である。
現時点で私は、「コンサートの生々しい再演」を実現するオーディオのあり方について、次のように考えている。オーディオシステムは一つの楽器でありその「全体の鳴り」を「整えて(チューンナップ=調律)」してやることが最も重要だと。どこかが突出してはいけない。
もし、あなたのシステムが全体にスローなら、それに対してあなたは違和感を抱かないだろう。なぜなら「自然界で起きるのと同じ音の劣化(物理的に正しい音の変化/劣化)」に対して、人間は驚くほど寛容であるからだ。つまり、歪みが生じるのはかまわないが、「自然には起きない音の変化」を感じさせてはいけないのだ。人間にとって「不愉快な音=オーディオ臭さ」を工夫と努力によって消し、人間にとって「本物にしか感じられない音」を出すのが「オーディオ演奏」の真髄であり、目的なのだ。最後にもう一度言うが、オーディオ演奏において「ゲイン、オブ、ワイヤー」は、理論的にすら成立しない。そんなものにこだわるオーディオメーカーは「くそ食らえ!」である。
私は、自分のシステムで「写真以上」に本物に見える「絵」を描きたい。書き上がった「絵」がプロの音楽家、演奏家の審美眼で「生々しい」と評価されることは、とても嬉しく、そしてなによりも光栄に感じている。私の敬愛する、今は亡き演奏家達にほんの少しでも「借り(愛)」を返せた気持ちになれるからだ。