暖かい春の陽気につられて外に出ると、どこからともなく音楽が聞こえてくることがあります。耳に残ったその音楽をもう一度聴きたい。それが、オーディオに目覚めた始まりではありませんか?
私の最初のオーディオは、好きな歌謡曲をエアチェックするため自室に持ち込んだ当時流行の高音質ラジカセでした。やがてラジカセは、カセットデッキ・レコードプレーヤー・プリメインアンプ、そして小さなブックシェルフ型スピーカーを組み合わせた小さなステレオに変わります。
大学を卒業する頃には、そのシステムにチューナーと2台目のカセットデッキ、レコードプレーヤー、ミキサーが加わって「オリジナルミュージックテープ」を作れるほどに発展しました。聴く音楽も歌謡曲やフォークソングから、ディスコ系の音楽に変わります。始めてFMから流れるマイケル・ジャクソンを聞いたのもこの頃です。名前を知らない間は、声だけ聞いて歌っているのは「女性」だと思っていました。
大学卒業までは、歌謡曲とディスコミュージックばかり聴いていました。そんな私をJAZZに目覚めさせたのが、マイルス・デイビスです。彼の「Seven
Steps ToHeaven」を聴いたとき、その何とも言えない悲しげなトランペットの音色に心が共鳴し、彼のトランペットを中心に繰り広げられる、JAZZの透明な美しさ、深さに魅了されました。
それがきっかけとなって、どんどんJAZZを聴くようになりました。聴き始めはJAZZというものの正体すらわからなかったのですが、それでも戦後間もない1950年代から1970年までのJAZZが持つ華やかでムーディーな大人のムード溢れる世界にどっぷりとハマっていました。その頃のJAZZが持つ独特の陽気さは時を超え、いつの時代にも生きる力と夢見る力を与えてくれるように思います。元気のないときには、ちょっと古いJAZZを聞いてみませんか?エネルギーを貰えるはずです。でも、間違ってアメリカが病み始めた時代のJAZZ(コルトレーンなど)は、聞かないようにしてください。心が沈んでしまうかもしれないですから。
こんな風に長い間、歌謡曲とJAZZ以外の音楽には目もくれなかった私にとってクラシックは、当時非常に「縁遠い」音楽でした。さらに今程良質な環境で音楽を聞けなかった当時は、ざわざわしている店舗内で交響曲を聞いても、ピアニッシモを聞き取れるように音量を合わせておくと、フォルトでは音が歪んでうるさくなってしまい、人はなぜこんな酷い音のディスクを素晴らしいというのか?その良さがまったく分からない状態でした。
そんな私に第三の覚醒?をもたらしたのが、「リパッティー」のピアノです。とりあえず仕事上クラシックを無視するわけにもいかず、「ピアノ曲なら聞きやすいだろう」という安易な考えで購入したのが、リパッティーのショパンでした。なぜ、最初からそんな古い演奏を買ったのか?たぶん、そのころカタログ通販で取り寄せていた古い年代のJAZZ-CDソフトに混ざって購入したからだと思います。JAZZは古いのが良いから、クラシックも古いのがよいと思ったのかも知れません。それは間違いではありませんでしたが、とにかく「うるさくない」のが気に入ってリパッティーは好んでよく聞きました。
クラッシックが好きじゃないのにリパッティーを繰り返し聴いていると「なんだか体が軽くなる」、「気分が良くなる」そんな気がして不思議でした。歌謡曲やJAZZのような「体が動くように音楽に乗る感覚」は一切感じないのに心が軽くなる。そんな経験は生まれて初めてでした。リパッティーがきっかけとなってクラシックが理解できるようになり、いまでは時に偉そうなことを書くほど「クラシック通」ぶっています。クラシックを聴くことで音楽の勘所?を掴んだのか、スムースに音楽の本質を理解できるようになりました。今では、民族音楽など「あらゆる音楽」の魅力を知っています。私にそんな素晴らしい「音楽への目覚め」をもたらしてくれた「ディニュ・リパッティー」の誕生日は、今日3月19日です。
話を少し戻します。JAZZの目覚めでは「マイルス・デイビスの持つJAZZの透明感に魅了された」と書きました。リパッティーのピアノでは、「さりげない美しさ」に魅せられました。私には前者が月で後者は太陽を思わせますが、共通するのは彼らの音楽に「ある種の完成された美的感覚」を感じることです。その感覚は、それまで聴いていた歌謡曲の「歌手の魂(喜怒哀楽)」に触れて感動するのとは違います。人間的な感情を超越し、例えば綺麗な景色を見て感動するように「音楽そのものを美しい」と感じる、まったく異質な感覚です。
最近では、その「美しさ」への感動は音楽だけではなく、絵画であったり、あるいは料理であったり、香りであったり、五感すべてから得られるように思います。街を歩いていても、時にふと「美しいもの」を見つけることがあります。そう書いていたら、最近そういう「美しいもの」に触れる機会が減ったように思いました。本当に日本には、「美しいもの」が減ってしまったのでしょうか?
私の大好きな「槇原敬之さん」が麻薬関係で服役し、社会復帰して発売した一枚目のアルバムに「太陽」という曲が収められています。その歌詞の中に「美しさは変わらない。もしも変わるとすれば、それを映す人の気持ちが、変わるだけだから・・・」という一節があります。美しいものが減ったと書いたとき、この歌詞に受けた衝撃を思い出しました。なんて素晴らしく、そして深い意味を持っている言葉でしょう。
まさに今の日本の状況がそうかも知れないと思うのです。普段の会話に「感動の言葉」が多くあれば、きっと隠れていた「美しいもの」が多く見えるはずです。美しさを感じる機会が減ったとすれば、それは日本人の心の中にある「感動」が少なくなっているせいかもしれません。地球や自然への感謝を忘れない、清らかな心。小さな事にも喜びを感じられる心を忘れては、幸せは見えてきません。
私たちが普段触れる中で、最も数多くの感動を与えてくれるもの。最も数多くの美しさを感じさせてくれるもの。それは、オーディオやテレビではありませんか?音楽や映画、TV番組に感動し、心がリセットされることは決して少なくないはずです。それでは、自分が聴いているオーディオから流れる音楽に「魂」は宿っているのでしょうか?テレビに映る映像に音楽に「美しさ」は見いだせるでしょうか?私は「受取手次第」だと思います。
どんなに良い音や映像が流れていても、それに「呼応する魂」を持たない人には、それはただの音や画面でしかなく、どんなに美しい曲を聴いても心が素直でなければ、それを美しく感じないかもしれません。だから、オーディオの性能が上がれば、感動する機会が増えるというのはある意味で真実であり、ある意味では幻だと思うのです。重要なのは「中身」で「外見」ではないからです。容易に見えるものは「浅く」、「深い」ものは見ようとしなければ見えてきません。
オーディオやシアターの一番大切な性能は、それを聴く人の「心の中」にあります。もし、自分のシステムに感動できなくなったら、自分自身の変化を見つめ直すことが、時には良い結果を生むことがあるかもしれません。