パソコンとインターネットが発明されてからの変化はとても早く、社会がそれに追いつけない状況が続いています。人類の歴史始まって以来の激動の中を私たちは生きています。来るべき変化を、受け入れて変わるか?あるいはかたくなに拒否し、留まるか?
選ぶのは、その変化を招いた私たち自身です。
オーディオも例外ではありません。20世紀初頭に発明された「録音技術」は、この100年で飛躍的な進歩を遂げました。当初のレコードは、音を振動に変換して記録し、それを再び物理的に再現していました。その後、電気録音の発明で音をマイクで「アナログ電気信号」に変換して記録し、再生時にスピーカーが電気信号を「アナログの音(連続空気振動)」に復元するようになりました。そして現在、記録の保管は「アナログ」でなく「デジタル」で行われるようになっています。
元々の空気の振動が電圧振幅に置き換えられたアナログでは、方式は違っても信号の形は似ていました。しかしデジタル処理では、音は「一とゼロの記号」に分解され、保存されます。元の「音」とは似ても似つかない記号にまで分解された演奏が、復元されて「演奏の雰囲気」が伝わるのは、ものすごく不思議なことだと思いませんか?
しかし、デジタルの時代になって「演奏者のハートまでの距離」がアナログ時代よりも遠くなったように感じるのは私だけでしょうか?限定されたソースですが、SPレコードの音や蓄音機で音楽を聞いたとき、その「驚くほどの生々しさ」に度肝を抜かれたことがあります。音が良いというよりは、もっと直感的に肌に感じる「音の濃さ」や「生々しさの温度感」が違ったからです。
逸品館の音は開店当初よりも格段に良くなっています。しかし、音楽に宿る「魂」の「温度」は、高まったでしょうか?レコードに比べCDは便利になりました。CDがデーターになると更に便利になるでしょう。しかし、ラックからレコードを取り出し、埃をぬぐい、前回聞いた記憶をたぐり寄せながら、静かに針を落とす。そういうプロセスが省略され、物事が便利になればなるほど「魂との距離」が遠ざかるように思うのです。
オーディオも変遷の時代がやってきました。音楽を記録するメディアがディスク(円盤)からシリコン(メモリー)へと変わりつつあるのです。そう遠くない将来、音源はディスクではなく「データー」で提供されるようになるはずです。そうなれば、愛聴盤という言葉はなくなってしまうのでしょうか?色あせて行くレコードのジャケットやブックカバーに時を感じるノスタルジーも消えるのでしょうか?ディスプレイの写る写真を見ていると、なんだか寂しくなってしまいます。
寂しいと感じるのは、オーディオだけではありません。インターネットがなかった時代、図書館を巡りやっとありつけた情報のありがたさと重みは、Wikipediaからは感じ取れません。私は思います。録音や撮影で事象がデーター化され、それがデジタルになった段階でそれらは「命(魂)」を失っているのではないだろうかと。それが例えどれほど完璧に保存された情報であったとしても、受取手に「それを受け取ろうという情熱」がなければ、それはただの意味すらない情報にしか過ぎません。しかし、どれほど不完全な断片であったとしても、受取手が必死になって情熱を注げば、それは素晴らしい記録として蘇るでしょう。
映画、ニュース、インターネット、書籍・・・、すべて同じだと思います。目の前の「情報」に再び命を与えられるのは、私たち自身の「情熱」です。時間と場所によって途切れた糸を繋げるのは、受手の「情熱」しかないはずです。情報が溢れることで逆にそれが希薄になってしまったこれからの時代に問われるのは、今までにもまして「人の心(魂、情熱)」ではないでしょうか?
こんな事を考えたのは、昨日久しぶりに「ギーゼキング」や「ホルショフスキー」、「リパッティ−」のバッハを聴いたかも知れません。音楽が最高の芸術であった時代の演奏。その演奏に込められた「魂の音」の再現。ここしばらく簡単な音楽に流されて、少し遠ざかっていた「オーディオの最も大いなる価値」を来年は、もっと身近に復活させようと思います。変わって行くもの、失われてはならないもの。その取捨選択こそ、オーディオ文化の継承に最も大切です。