私の「オーディオに対する主張」は、その時々に応じて変わってきました。それは、メルマガのバックナンバーをご覧いただければ明かです。ステレオサウンドに掲載している広告コラムでも、「CDはダメでSACDにしかオーディオの未来は見いだせない」と書いていた頃(2000年頃)があれば、最近は「CDとSACDには大きな差がない」と主張しています。CDはアナログに近づき、それを超えたと言えば、アナログにはデジタルが到達できない良さがあると言ってみたり、私の主張は度々矛盾します。しかし、それは正直にそう思ったからですし、また、技術の進歩や様々な環境の変化と共に、主張は「臨機応変」に変わってよいと考えているからです。今回は「高級オーディオ」に対する、私の考え方の変遷を書いてみたいと思います。
高級オーディオというあまり一般に馴染みのない商品を取り扱っていると時々、「高級オーディオっていくらくらいするものですか?」とか「音が違うのですか?」と聞かれることがあります。価格の方は簡単にお答えできるのですが、音の違いばかりは言葉では説明できません。そんなときには機会があれば、3号館のメイン試聴室でお好きな音楽をお聴き頂きます。音を聞いた後では、「価格はとにかく、音の凄さはよくわかった」、「興奮した」という意見に変わります。
たいていの場合、次に「どのようなお客様が高級オーディオを購入されるのですか?」、「一般的なサラリーマンはどれくらいの価格のオーディオを購入されるのですか?」という質問を頂戴します。
最近の私は次のように答えることにしています。例えば、あなたの時給が800円だとして「好きなもの(男なら時計やカメラ、車やオーディオ、あるいはPCなどの"道具”がそれに該当すると思います。女性の場合は、化粧品や洋服、宝飾品が該当しそうです)を買うときはいくらくらいを目安になさいますか?もしあなたの時給が10倍になったとしても、同じ"価格"の商品を購入しますか?収入と共に、購入する商品の価格は上がるのではないですか?」と逆に尋ねた後、「自分自身の報酬に見合う高価な商品を購入したくなるのは、多くの人に共通する望みです。なぜならば、それが自分へのご褒美だし、前向きなモチベーションを生むからです」と。そうすると、ほとんどの方は納得されるようです。
この答えにたどり着くまでは、価格と性能という命題に関して私も随分回り道をしてきました。今も「安くて旨いものをお薦めしたい」という気持ちは変わりませんが、昔は安い製品と高い製品の音があまり変わらないことを大きな疑問に感じ「価格ほどの価値がないと考える商品を否定する」ことがありました。また、音質とは無関係な外観にコストを割いて、販売価格が不必要に高くなっている製品に疑問に感じることもありました。しかし、今では料理を盛りつけるお皿が味わいを深めるように、製品の外観やそれを取り巻く環境(アフターサービスなど)を含め、高級品にはそれに見合う「雰囲気(風格)」や「贅」が求められることを知りました。そして、徐々に私の中で、「高級品」に対する定義が変わりました。
私は海外ドラマが好きだと何度かお話ししていますが、最近見たドラマで「ボスが幸せそうにしていなければ、部下も幸せを感じない」という台詞を耳にしました。そしてなんだかすごく納得しました。会社であれ家庭であれ、なんらかのグループであれ、そのトップが幸せでない組織でそのトップに主従する人たちが幸せになれるでしょうか?リストラを繰り返す企業で人は幸せになれるでしょうか?全体の給与水準を下げて、雇用を確保するという選択はなかったのでしょうか?確かに企業の存続には「利益の計上」がマストです。しかし、その利益を生み出すのは「人」です。金銭的な利益と同時に社員の幸せ感も大切ではないでしょうか?私のような若輩者が口にする台詞ではないかも知れませんが、世相が暗い最近は特に強くそう思います。
趣味の製品選びも同じだと思います。どんなに安くてもその製品に価値を見いだせる心の余裕が、自分自身を幸せにしてくれるのではないでしょうか?私は自分自身可能な限りの多様な価値観を経験し習得することで、価格にとらわれず幅広く製品の良さを見いだして行きたいと考えています。
そしてなによりも、逸品館のスタッフ自身がオーディオやシアターの喜び、人生の楽しみを知らくして、どうしてお客様にその素晴らしさをお伝えできるのだろうかと強く感じます。自分たちが扱う製品に大いなる価値を見いだし、それをお客様にお伝えすること。それは商品を安く売るよりも基本的で、何よりも大切なことだと感じています。人生には仕事や責任ばかりではなく、自由と楽しみが必要です。