【究極の音質を目指して】2. 原音追求再生はオーディオのゴールではない
■現在のオーディオを取り巻く状況には多くの問題がある
最近「レコード」がにわかに注目を集めています。また、CDには収録できない音が聞ける高音質なものとして「ハイレゾ」や「DSD」が注目されています。
しかし、ちょっと待ってください。
CDは「レコードよりも音が良い」とされ、ハイレゾ=DVDオーディオ、DSD=SACDは、結局普及することなく姿を消しつつあるのです。
では、これらの「風評」は誰が立てているのでしょう?
それは「オーディオ機器の製造メーカー」です。
彼らが製品を売りたいときに唱える呪文は「高音質」です。けれど、振り返ってみても彼らの言う「高音質」は実に「日和見的」で「科学的根拠」がありません。
もちろん、今あるオーディオは製造メーカーの宣伝によって一般化したことは事実ですけれど。
しかし、科学的根拠だけでなく芸術性もないがしろにして、製品を売ろうとするのもまた、製造メーカー(大企業)なのです。
綺麗事ばかりで生きて行けるわけではありませんが、無垢な気持ちで音楽やよい音を求めるお客様を「新技術(新製品)の実験台」にしたり、金儲けのための食い物にしていいはずがありません。業界全体に「音楽に我が身を捧げる」という強い情熱が見られず売上優先の風潮が蔓延しています。新聞・雑誌などの有力メディアですら、間違った問題提議や解決方法・意味のない風評を煽り立て、消費者を惑わせる有様です。これが、オーディオという素晴らしい文化が抱える一番大きな問題だと思います。
■「記録」と「芸術」の違い
メーカーが「高音質」と並べて唱える呪文は「原音により近い」です。
しかし、オーディオ機器はどれほど進歩しても「原音」を忠実に再生することができません。
これは科学的な事実です。
「記録」と「芸術」の違いを考えましょう。
「記録」とは、ありのままを変えずにそのまま残すことです。「芸術」とは、現実をよりわかりやすく、あるいは意味深く伝えるために必要な情報と、そうでない情報を人間が「取捨選択」することです。
生演奏は録音されるときに、レコーディングエンジニアの手で「取捨選択」が行われます。さらにそれを再生する時に「リスナー(あなた)」の手で、再び「取捨選択」が行われます。
「取捨選択」により、現実が芸術に昇華するのであれば、原音を芸術的に正しく「取捨選択」することで、オーディオは「生演奏」よりも意味深く、高い芸術性を発揮することができます。
これをより正しく理解して発達したメディアがあります。
それは「映画」です。
「映画」は「舞台の記録」ではなく、「映画の表現チャンネル」を使った新しい表現方法として発達しました。
「映画」を「現実の記録」として、考える人は誰もいません。
なぜ「オーディオ」だけが、いつまでも「生演奏の記録」とされているのでしょう?実に不合理で、おかしなことだと思います。
オーディオは「生演奏の記録」という呪縛から説かれ、新しい「表現方法」と認められたとき、オーディオは原音(生演奏)を超えられます。
■オーディオの価値は価格では決まらない
逸品館はオーディオ機器を「人と人を繋ぐもの」として考えています。高価な代価を払えば、より密接に人と繋がることができるのでしょうか?つまり、高額なオーディオ機器であればあるほど音楽的な感動が深まるのでしょうか?私はそうは考えていません。
ミュージシャンがスタジオで録音するとき「目の前に聴衆」はいません。私達がオーディオで音楽を演奏するとき「目の前にミュージシャン」はいません。けれども「ミュージシャンの伝えたい」という想いと、オーディオマニアの「聞きたい」という想いがひとつになれた瞬間、オーディオ機器は演奏者の魂と、リスナーの魂を繋ぐことのできる存在になるのだと私は考えています。
それを決めるのは「想い」の大きさや重さであって、決して価格ではないのだと思います。